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プロフィール

7月 21, 2015

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病院に行っても治らない人が訪れる
薬や手術に頼らない健康を提唱する
4万人を診てきた心と身体の専門家
心身療法士 中尾和人とは
どんな人物なのか?

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こんにちは。

家庭の医学 in 久留米を運営している
トータルケア太陽
心身療法士の中尾和人です。

この家庭の医学 in 久留米は

病院に行っても治らない人

できるだけ薬を飲む事を
避けたいという人

手術をしたくない人

つまり、病院頼りではなく、
自ら症状や
病気に対してきちんと
向き合う方に
お役にたてればと
思います。

私は事故や心筋梗塞や脳の疾患など
の救急の
処置が必要な場合以外は
病院は必ずしも
必要ではないと
思っています。

私は薬や手術に頼らずに健康を
管理方法が
当たり前の世の中に
なって欲しいと思っています。

そういう私も一日に150人ほど
来院する病院の
整形外科の
リハビリテーション科に
勤めていました。

そこでは、毎日のように
患者さんが
痛みを取る事を求めて
外来受診されます。

毎日、波のように押し寄せる
患者さん達に
カードを出してもらい
電気に当てて、
牽引し、足湯、
ホットパック、
ウォーターベット、
マッサージ

整形外科に行かれた事のある方なら
わかると
思いますが、大体やる事は
同じです。

こんなことやっていても全く
治らないと
感じている方もすでに
多いのではないかと思います。

そう感じているあなたにとっては
このサイトで書いていく事は参考に
なると
思いますのでご期待下さいね。

では、
私自身がどうして病院を辞めてまで

自分で独立し、薬や手術に頼らない
健康法を
追求するようになったのか?
その想いと経緯に
ついて詳しく
ご紹介したいと思います。

ちょっと長くなりますので、
全体像が分かるように

見出しの部分を先に出しておきます。

————————————-
◆私は前の職業は船乗りでした。
◆私はパニック障害になりました。
◆私は病院じゃない所で救われました。
◆一日50人の身体を診ていました。
◆更なる医の道を
追求するために起業しました。

◆しごと創造塾という
起業塾を運営していました。

◆最後にあなたに
メッセージを送ります。

————————————-

では、早速、
詳しい自己紹介に入っていきます。

————————————-
私は前の職業は船乗りでした。
————————————-

私は大学は東京商船大学という
タンカーや
コンテナ船などの
大きな船を動かす事のできる

航海士という仕事に就くための
学校を卒業し
船会社に就職しました。

船の仕事というのは、不規則でかつ
体力的にも精神的にもハードです。

そして、
何よりも限られた人としか接せず

本当に狭い世界で、仕事をし、
生活をします。

私は給料は良いけど、この仕事を
ずっと
続けていくのかな~?と
考えるようになり、
その葛藤の中
いつも悶々としながら
仕事を
していました。

その葛藤はどんどん大きくなり、
自分では
どうする事もできなく
なっていきました。

それは一度きりの人生なのに、
こんな狭い世界で終わりたくない。

もっとたくさんの人と関わりながら
私は 生きていきたいと強く思う
ようになりました。

そして、ついに折角、大学まで
出してもらって、
親には申し訳ないと
思いながらも普通なら
高収入で将来
安泰の船会社を辞める事にしました。

————————————–
私はパニック障害になりました。
————————————–

船乗りを辞めて
福岡県久留米市の実家に戻りました。

辞めたのはいいけども、
何せ陸の上の河童状態で
何もすることがありません。

船乗り時代に使えずに貯まっていた
貯金があるし、
少しのんびりしようと
思っていました。

毎日、昼はごろごろしながら、
夜な夜なお酒を
飲みに出かけては
朝方に変えるという日々を

ずっと続けていました。

どうせ仕事を辞めたのだから、
何か世の為、人の為になることを
したいと思って
政治家を目指した
時期がありました。

でも知れば知るほどに、世の中の
ドロドロとした
大人の世界という
ものを見せつけられました。

きっと今よりも
もっと純粋だったんだと思います。

何のために生きているのか?
何のために仕事をしていくのか?
何のために人と付き合っていくのか?

そんな根本的な事を
考えるようになりました。

今思うと、
やることがなかったですよね。

自分の人生で方向性を
完全に見失ってしまって
いたんだ
と思います。

ある夜、寝ていた私は急に呼吸が
苦しくなり、
息ができなくなって
しまいました。

家に居ながら、携帯電話で家の
固定電話に
かけて、自分の異常を
家族に伝えて
部屋に来てもらい、
救急車を呼んでもらいました。

救急車に乗せられた私は呼吸が
苦しく、
意識がもうろうとして
いましたが、その時の
救急隊員の
言葉に耳を疑いました。

「こんなことくらいで
救急車読んだんですか?」

それから救急に連れて行ってもらい
検査をして、
処置してもらいましたが
異常はなし!様子を見ましょう!

という診断で それから三回ほど
同じような発作が起きました。

原因を知りたかったので、
色々な病院に出掛けて
いきましたが
どこでも異常はないから
運動しなさい
ゆっくりしていなさいみたいな
感じで
若干面倒くさそうに扱われていました。

今ではあえて病名を付けるのなら
パニック障害と
言うのでしょうが
その頃にはそのような言葉を
一度も
耳にすることはありませんでした。


本当に苦しかったですし
親にも心配をかけました。

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私は病院ではない所で救われました。
————————————–

当時、精神的も
肉体的にも悩んでいました。

ある時、姉が
カイロプラクティックの先生の所に

行ってみたら?と勧めてくれました。

小さな頃より整骨院には
よく行っていましたので

抵抗はありませんので
早速予約をしてから
出掛けてみる事にしました。

扉を開けると、
若い先生が出迎えてくれました。

その時の事はよく覚えています。
何せその場で発作が起こったのです
から…。

施術を受けていた私は
突然呼吸が苦しくなりました。

先生は、慌てるようでもなく
私が苦しいという事を
受け止めてくれました。

そして、ゆっくり深呼吸する
ように促されて、仰向けに寝ている
私の首の部分を
軽く触れていて
くれました。

発作は治まり、
気分的に楽になった気がしました。

どこに行っても面倒くさそうに
扱われていて、
あんまり苦しいと
言う自分が悪いのだろうか?と

半ば諦めかけていましたので
先生の対応は
本当に心に
沁み渡りました。

その頃の私は本当に精神的に
落ちていたんだと思います。

カイロプラクティックの先生の
施術を
受けるようになってから
なぜか?
前向きに考えられるように
なっていきました。

カイロプラクティックには
自律神経を整える作用があることを
その当時、初めて知りました。

この先生に出会えた事で、
私は心身共に救われました。

————————————–
一日50人の身体を診ていました。
————————————–

船を辞めてからの私は当たり前ですが
色々な仕事を転々としていていました。
すべてが、その場つなぎの仕事でした。

これから生きていくために
自分はどうしたいんだろう?

そんな事を自問自答する
日々は続いていました。

突き詰めていくと自分が
一番うれしかった事を
仕事に
したいと思うようになりました。

そこで私を救ってくれた
カイロプラクティックの
先生に
弟子入りしようと思い、相談に
行きました。

すると先生は

身体の事をきちんと勉強することが
まず一番大事
だから、まずは学校に
行ってきなさい

と言われました。

そう言われたので
学校に二年間通いました。

二年目は先生が直接
指導してくれてました。

二年目の勉強を終える頃に
思わぬ知らせが
先生からありました。

病院のリハビリ室で求人していて、
そこで働いてみないか?
ということでした。

当時、違う仕事をしていた私には
もう迷う理由は全くありません
でしたので、
すぐに返事して
面接を受けに行きました。

無事、面接も合格し
病院で働き始めました。

これはすごくラッキーな事です。

当時、その病院では
一日に30名弱の患者さんが

来ていて、比較的ゆっくりと
患者さんと接する
ことが
できましたので、もう無我夢中で
身体を
触りまくりました。

問診をしては、体を触り、
レントゲンやMRIの画像をみて
その場所を触り、
とにかく手の感覚を
養う臨床を積み重ねました。

気がつくと評判を呼び
2年目には150名の

患者さんで溢れかえるように
なりました。

この病院では
手術、ペインクリニックもしていて

膝や股関節の人工関節、脳梗塞後の
リハビリも
ガンなどの終末期の
患者さんとも接してきました。

この病院での経験が
私の土台になっています。

————————————–
更なる医の道を
追求するために起業しました。

————————————–

一日150名の患者さんで
溢れかえるリハビリ室は
活気はありましたが、私はどんどん
疑問を感じる
ようになりました。

なにせ一人8分と時間が
決められていて時間を消化するために
人数をこなすために
いつのまにか
仕事をしている事態になっていました。

もっと一人一人と向き合いたい。

そう思った私は病院を
辞める事にしました。

2009年4月の事です。

あれからもう5年が経ちました。
(2014年時点)

————————————–
しごと創造塾という
起業塾を運営していました。

————————————–

仕事をしていなかった頃の私は
とにかく人に
会いまくりました。
色々な人から話を聞きたくて

社会の事を知りたくて、政治家や
社会的企業家など
本当にたくさんの
人に会いに行きました。

そして、ある時には私を
拾ってくれた方がいました。

うちで働いてみないか?とその方は
塾の会社の
社長でNPOという分野で
アメリカの理事も日本人で

初めて勤めるほど有名な方でした。

その方から任されたのが
しごと創造塾という
想いを形にする
という久留米市が主催する

起業するための講座でした。

地域のための、地域の資源を使い、
困った事を
ビジネスにするなんて
標語を掲げて、啓蒙啓発の
ための
セミナーを開催し、様々な士業の
先生と共に
本講座をするという事を
7年間してきました。

起業するためには
非常にいい勉強になりました。

ですから、
病院を辞めて起業するという事に

抵抗はありませんでした。

この経験は病院での経験とは
また違って
今の私にはすごく
大事な土台となっています。

健康でいるためには、
仕事をするということも

大事な要素です。

それは食べていくためでもあり
人との関わり方を学ぶ場でもあり

そして何より、
自分が必要とされる場を

持つという重要性があります。

うつ病などで
仕事をすることができない人

仕事をしているけど
精神的なサポートが必要な人

仕事の作り方などの相談も
受けていこうと思っています。

————————————–
最後にあなたにメッセージを送ります。
————————————–

私は身体の構造はもとより、
精神的サポートが
必要であると
考えています。

人の健康は、
心と身体のバランスがとれていて

初めて成り立つものです。

今となっては、
数々の病院を渡り歩いてきて

藁にもすがる想いで私の所を
訪ねてこられる方が

たくさんいらっしゃいます。

これは患者さんを芋を洗うかの
ようにこなしていた
私にとっては
自戒の念がこみ上げてくるものです。

色々な所を訪ね、邪険に扱われ
傷ついている
方々には、世の中には
違う見方をしてくれる
医の専門家が
いることを知って欲しいです。

私はその一人に
なるべく毎日努力しております。

薬や手術に頼らずに、
症状を改善していき

生活自体を見直し、
その精神性を見直し

自分の健康というものを
しっかりと管理できる


そんな人がたくさん増えて
くれたらいいと思っています。

長くなりましたが
私、中尾和人の自己紹介です。

どうぞよろしくお願い致します。

1977年7月18日生まれ
(かに座のA型)

佐賀県鹿島市生まれ
福岡県久留米市在住

トータルケア太陽
心身療法士  中尾和人

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